「最近の若者は、・・・」なる言いぐさがある。年寄りが若者(それも面前か、あるいは特定できる目下の人間)に対し、直接的な名指しだと言いづらいので、間接的に、同年代レベルまで広げて論評する形で用いられることが多い。目下に苦言を呈する時に使ったり、自己肯定が前提で、それと相反する事象にオブジェクションを唱える場合に使うのだが、そう言う論評をしている人間を傍で見てると、出来るだけ使いたくない気持ちになる。しかし、悲しいかな、ついつい、口を衝いて出てしまうこともある。 私達、バブル世代にも、諸先輩方に「新人類」と呼ばれていた。先輩方の価値観と違う行動や発言を問題視する発言が多かった。一個人の言動や行動なのに、十把一絡げ的に決めつけて論評された。我々以前の過去にも、世代別に色々と若者を揶揄する表現はあった。そして、いつの時代も、自分のことは、棚に上げた物言いである。でも、それは、聴きようによっては、今となっては旬を過ぎた人間が、妬み、羨望を含んだ最大の賛辞とも受け取れる。「最近の若者は・・・」は、古代ギリシャの書物にも記述があるとか。こうなれば、人間の習性である。止めようがない。 数的優位世代の世論操作なのか?メディアが不安を煽る主導者なのか?は、どうだか知らないが、各メディアから受けるイメージでは、現代の若者が、広い分野において先輩世代から、後退しているようなイメージが作られているような感じを受けるのは、私だけであろうか?真実はどうなのだろう? 個人的な見解であるが、後退と言うより、むしろ更なる進化を続けていると思う。スポーツの世界を例に挙げてみると、世界の檜舞台で活躍する日本人は、野球も、サッカーも、テニスも、ボクシングも、我々の世代は、どれもほぼ皆無に近かった。夢を抱き、世界に飛び出して成功している者は、我々の世代より圧倒的に多い。これは火を見るよりも明らかである。少子化ゆとり世代の割には優秀な結果である(笑)
経済主導。経済界が政治を、いや、世の中を動かしている。法人は既得権益を守るため、形振り構わず、あからさまに自我を通すの世の中である。政治は機能していない。こんな世の中だからこそ、法人は自制し、将来の日本の発展形を見据えた感性を持ち、経済活動に携わるべきだと思う。「最近の若者は・・・」と論評する前に、だ。 賛否両論あるだろうが、幕末維新の中心的人物であった坂本龍馬も政治家と言うより、経済の人であった。(くどく、諸説あるだろうが、)百歩譲って、完全な政治家とは言い難い動きであった。経済力や海外の技術力で、世の中を変えようとしていた節がある。色々な意味で、国家のあるべき姿を、命を賭け、真剣に模索した希少な経済の人だと、捉えている。権力へ固執する欲がないからこそ、あのように純粋に日本の将来の有り様を主に据えて行動できた人物だと思う。 私は日本の将来に期待したい。経済の人として、欲に捕らわれすぎずに、世の中の為になることを、出来るだけ多くを事業として成立させたいと考えている。そして、更なる発展をゆとり世代に託したい。こんな夢を追って行きたいと思っている。