最近の若者像から、色々と考えてみた

2012.07.30

「最近の若者は、・・・」なる言いぐさがある。年寄りが若者(それも面前か、あるいは特定できる目下の人間)に対し、直接的な名指しだと言いづらいので、間接的に、同年代レベルまで広げて論評する形で用いられることが多い。目下に苦言を呈する時に使ったり、自己肯定が前提で、それと相反する事象にオブジェクションを唱える場合に使うのだが、そう言う論評をしている人間を傍で見てると、出来るだけ使いたくない気持ちになる。しかし、悲しいかな、ついつい、口を衝いて出てしまうこともある。 私達、バブル世代にも、諸先輩方に「新人類」と呼ばれていた。先輩方の価値観と違う行動や発言を問題視する発言が多かった。一個人の言動や行動なのに、十把一絡げ的に決めつけて論評された。我々以前の過去にも、世代別に色々と若者を揶揄する表現はあった。そして、いつの時代も、自分のことは、棚に上げた物言いである。でも、それは、聴きようによっては、今となっては旬を過ぎた人間が、妬み、羨望を含んだ最大の賛辞とも受け取れる。「最近の若者は・・・」は、古代ギリシャの書物にも記述があるとか。こうなれば、人間の習性である。止めようがない。 数的優位世代の世論操作なのか?メディアが不安を煽る主導者なのか?は、どうだか知らないが、各メディアから受けるイメージでは、現代の若者が、広い分野において先輩世代から、後退しているようなイメージが作られているような感じを受けるのは、私だけであろうか?真実はどうなのだろう? 個人的な見解であるが、後退と言うより、むしろ更なる進化を続けていると思う。スポーツの世界を例に挙げてみると、世界の檜舞台で活躍する日本人は、野球も、サッカーも、テニスも、ボクシングも、我々の世代は、どれもほぼ皆無に近かった。夢を抱き、世界に飛び出して成功している者は、我々の世代より圧倒的に多い。これは火を見るよりも明らかである。少子化ゆとり世代の割には優秀な結果である(笑)

国力を上げるには、人口の増加(大数の論理)と並び、『個』のレベルアップは、欠かせない重要な要素である。4年制大学の進学者数と進学率は、昭和30年代生<昭和40年代生<昭和50年代生<平成生まれと順調に上昇曲線を描き、平成21年(2009年)には、進学者数60万人/年、進学率は50%を超えた。昭和40年前半に生まれた日本人の進学率は25%程度、大卒者も45万人/年 前後である。そう言えば、当社の従業員でも、20代は大卒者の比率が高い。少子化の中、進学者数と進学率が共に上昇すれば、大学生の学力が下がるのも頷ける・・・数字は色々な見方が出来る。もっとも、学力低下は他にも原因がありそうではあるが。。 知識も理論も技術も、全てが、過去より進化している世の中である。親は、子育てを科学し、知恵を絞り、工夫をして、個性を尊重して、子の将来を見据えた、子育てをしている。スポーツ業界でも、世界で通用する選手の育成に、ジュニア世代に投資を始めている。最近のニュースで言っていたが、我々の世代より凶悪犯罪は減少したらしい。これは、比率で見ないと分からないかな。。 私は若者と接する機会がある。接した感想は、性格的にも良い子、真面目な子、前向きな子が多いと感じる。デフレ経済が猛威を振るう時代に、現実を受けとめて粛々と対処しようとする精神面も、かなりタフに出来ているとも感じる。こんなことから、近い将来、全ての分野において、我々の世代を凌駕するような時が来ると感じる。だから、少子化ゆとり世代に引き継ぐことをネガティブに捉える必要は全くないと、私は思うのだが、皆さんのお考えは、いかがなものなのだろうか。

経済主導。経済界が政治を、いや、世の中を動かしている。法人は既得権益を守るため、形振り構わず、あからさまに自我を通すの世の中である。政治は機能していない。こんな世の中だからこそ、法人は自制し、将来の日本の発展形を見据えた感性を持ち、経済活動に携わるべきだと思う。「最近の若者は・・・」と論評する前に、だ。 賛否両論あるだろうが、幕末維新の中心的人物であった坂本龍馬も政治家と言うより、経済の人であった。(くどく、諸説あるだろうが、)百歩譲って、完全な政治家とは言い難い動きであった。経済力や海外の技術力で、世の中を変えようとしていた節がある。色々な意味で、国家のあるべき姿を、命を賭け、真剣に模索した希少な経済の人だと、捉えている。権力へ固執する欲がないからこそ、あのように純粋に日本の将来の有り様を主に据えて行動できた人物だと思う。 私は日本の将来に期待したい。経済の人として、欲に捕らわれすぎずに、世の中の為になることを、出来るだけ多くを事業として成立させたいと考えている。そして、更なる発展をゆとり世代に託したい。こんな夢を追って行きたいと思っている。